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大晦日
忘年回
Wii リモコンで頭の位置を認識する VR システム
Wii リモコンで頭の位置を認識する VR システム
wiiリモコンすごいね。
wiiリモコンを直感的な入力デバイスにするシステムが公開されてから、気にはなってたけどハード触るの苦手だから敬遠してたんだけど、いよいよ赤外線センサ作りたくなってきたよ。
動画のぽっちゃりお兄ちゃんが実演でぐんぐん体動かしてるシーンが、なんかこう、ぐっときますね。
![]() | Wiiリモコン (2006/12/02) Nintendo Wii 商品詳細を見る |
眠い日
一区切り
ひとつ終わって、また始まるのだろう。
卒制発表会が幕を閉じ、次、卒展に向けてのあれこれで制作はまだまだ終わらないのだが、とりあえず、ほっと一息つく頃だと思う。周りを見ていても、ぴりぴりとした張り詰めた空気は止み、安穏とした、和やかな匂いがする。同時に、あぁ、終わったんだな、というような、どこか呆けたような顔をしている子も散見する。つられて僕も、少し寂しく思う。終わったんだなぁ、としみじみ思う。
今年という一年にもまた、終わりが近付いている。年賀状…毎年デジタルですけど…はまだ出来ていない。今年は、どんな年だったかなぁ、と思い返す。
うーん、ちょっと大きい仕事の話があって、学校に復帰して、ゼミっていうかコースごと移動して、色々あって落ち込んで、作品制作ができなくなって、何となくな友達もできて、悟りのようなものも開いて、でも卒業には間に合わず、もう一年モラトリアム延長決定、と。
作品の構想みたいのは全然ないんだけどね。まあ来年は、最悪、というか、当然、イラストでも良いよな、って思ってます。思えるようになった。春頃は、イラストじゃダメだろって思ってたけど、じゃあ、何よって感じですよ。結局僕が会得していることはイラストしかないんだから、それで勝負するのは当然なんだよね。ま、今は時間あるから、他の色々勉強したり、違う形で試してみよう、と、そんな調子でやっていくつもりです。
僕にとって作品っていうのは、まだ未知のものでもある。卒業するだけなら、どうということもないのかも知れないけど、作品だからね。胸を張って、自分の作品である、と言えなければ、無いのも同然だ。どんなチープなものでも、魂を込もっていれば、伝わるものがある。22年生きてきたのだ。魂を詰め込めば、それなりのボリュームになるだろう。あくまでもそれなりかもしれないが。
来年必ず卒業できるかどうか、って、よく聞かれるけども、それはまだ、約束できないな!
へっへ。
さてはて、人生は長いのだ。
いくらでも寄り道しようじゃないか。
卒制発表会が幕を閉じ、次、卒展に向けてのあれこれで制作はまだまだ終わらないのだが、とりあえず、ほっと一息つく頃だと思う。周りを見ていても、ぴりぴりとした張り詰めた空気は止み、安穏とした、和やかな匂いがする。同時に、あぁ、終わったんだな、というような、どこか呆けたような顔をしている子も散見する。つられて僕も、少し寂しく思う。終わったんだなぁ、としみじみ思う。
今年という一年にもまた、終わりが近付いている。年賀状…毎年デジタルですけど…はまだ出来ていない。今年は、どんな年だったかなぁ、と思い返す。
うーん、ちょっと大きい仕事の話があって、学校に復帰して、ゼミっていうかコースごと移動して、色々あって落ち込んで、作品制作ができなくなって、何となくな友達もできて、悟りのようなものも開いて、でも卒業には間に合わず、もう一年モラトリアム延長決定、と。
作品の構想みたいのは全然ないんだけどね。まあ来年は、最悪、というか、当然、イラストでも良いよな、って思ってます。思えるようになった。春頃は、イラストじゃダメだろって思ってたけど、じゃあ、何よって感じですよ。結局僕が会得していることはイラストしかないんだから、それで勝負するのは当然なんだよね。ま、今は時間あるから、他の色々勉強したり、違う形で試してみよう、と、そんな調子でやっていくつもりです。
僕にとって作品っていうのは、まだ未知のものでもある。卒業するだけなら、どうということもないのかも知れないけど、作品だからね。胸を張って、自分の作品である、と言えなければ、無いのも同然だ。どんなチープなものでも、魂を込もっていれば、伝わるものがある。22年生きてきたのだ。魂を詰め込めば、それなりのボリュームになるだろう。あくまでもそれなりかもしれないが。
来年必ず卒業できるかどうか、って、よく聞かれるけども、それはまだ、約束できないな!
へっへ。
さてはて、人生は長いのだ。
いくらでも寄り道しようじゃないか。
光の射す方へ
目を瞑っていても、なんとなくわかるのだろうか。
先のことを聞かれる。がんばれるのか。先のことを今の僕に聞かれても答えようもない。先のことは、先の僕に聞いて欲しい。良いものを作れるのか。それは約束できない。あるがままに、僕のやりたいことを、僕がやりたいだけ、できればいいと思う。選択肢を奪われて、自由を失えば、自分という存在が消える。それは即ち、死と等価であるか、肉体的、精神的苦痛を伴わない分、死が上か。
作業もなかなか進まない。進めるべきではないのかもしれない。
元通り、蹲っていることが、正しいあり方なのだろうか。
今はただ、あるがままに、望むように、生きるために、前を向いて、進む。
先のことを聞かれる。がんばれるのか。先のことを今の僕に聞かれても答えようもない。先のことは、先の僕に聞いて欲しい。良いものを作れるのか。それは約束できない。あるがままに、僕のやりたいことを、僕がやりたいだけ、できればいいと思う。選択肢を奪われて、自由を失えば、自分という存在が消える。それは即ち、死と等価であるか、肉体的、精神的苦痛を伴わない分、死が上か。
作業もなかなか進まない。進めるべきではないのかもしれない。
元通り、蹲っていることが、正しいあり方なのだろうか。
今はただ、あるがままに、望むように、生きるために、前を向いて、進む。
native American!!
なんとも、ゆーつなDays...。
何を食べてもおいしいと思わない。おいしいって、もっとハッピーな感覚のはず。「食べれなくはない」ってのとは、違うよね。そしたらやっぱり、最近はおいしくないようだ。
同じく、なんとなく描く絵も、なんだか、ゆーつだ。
今日はコバヤシ君が乾きかけの絵をべちゃーってしてくれたので、特に。と、思ったが、あれはあれで中々良いのでいいです。
ともかく、何を描いていても、微妙な感じ。ちょっと前なら、もう少し、何を描いても、なんとなく良かったのだが、今は、なんとなくダメ。
ついでに眠い。ずっと眠い。寝ても寝ても、夜が来る。あ、はい。健全な生活を心掛けます。
という所で、最近は本ばかり読んでいるような気がする。それかネットでニュース見てるか。
お気づきの方いるでしょうが、横っちょにアマゾンのリンクはっつけるようになりました。三郎さんがアフィリエイトなんて、世も末ですね。というのは考えすぎで、書いてある通り、近況報告の一環として、読んだ本とか買ったものを提示していこうかと、思いまして。
とりあえず、疲弊した女の子達が3DCGを駆使し壮大な映像作品を作り上げてる横で、おじい様から借りた本を積み上げて、こうして日記を書いている体たらくです!
一冊だけ借りに行ったのに、いっぱい貸してくれたの。こないだ借りたのもまだ全部読んでないのに。絵を描いたり描かなかったり、本を読んだり読まなかったり。寝たり寝なかったり。
ってか眠いね。
今日は朝2時からずっと起きてました。最近寝たり起きたりするタイミングが難しくて難しくて。
はー。
最近の精神安定映像は蟲師とシンプソンズです。寝ながら聞いても楽しめる。
そろそろ帰るべきか。
しかし、せめて一冊くらいは読んでいこう。
何を食べてもおいしいと思わない。おいしいって、もっとハッピーな感覚のはず。「食べれなくはない」ってのとは、違うよね。そしたらやっぱり、最近はおいしくないようだ。
同じく、なんとなく描く絵も、なんだか、ゆーつだ。
今日はコバヤシ君が乾きかけの絵をべちゃーってしてくれたので、特に。と、思ったが、あれはあれで中々良いのでいいです。
ともかく、何を描いていても、微妙な感じ。ちょっと前なら、もう少し、何を描いても、なんとなく良かったのだが、今は、なんとなくダメ。
ついでに眠い。ずっと眠い。寝ても寝ても、夜が来る。あ、はい。健全な生活を心掛けます。
という所で、最近は本ばかり読んでいるような気がする。それかネットでニュース見てるか。
お気づきの方いるでしょうが、横っちょにアマゾンのリンクはっつけるようになりました。三郎さんがアフィリエイトなんて、世も末ですね。というのは考えすぎで、書いてある通り、近況報告の一環として、読んだ本とか買ったものを提示していこうかと、思いまして。
とりあえず、疲弊した女の子達が3DCGを駆使し壮大な映像作品を作り上げてる横で、おじい様から借りた本を積み上げて、こうして日記を書いている体たらくです!
一冊だけ借りに行ったのに、いっぱい貸してくれたの。こないだ借りたのもまだ全部読んでないのに。絵を描いたり描かなかったり、本を読んだり読まなかったり。寝たり寝なかったり。
ってか眠いね。
今日は朝2時からずっと起きてました。最近寝たり起きたりするタイミングが難しくて難しくて。
はー。
最近の精神安定映像は蟲師とシンプソンズです。寝ながら聞いても楽しめる。
そろそろ帰るべきか。
しかし、せめて一冊くらいは読んでいこう。
Labyrinth

発表会でした。
僕は作品できてないので、棄権したんですけども、一応本来自分の番であった頃が過ぎたあたりから出席して、みんなの発表を見ていた訳ですけど、やはりゲージツに触れると、こちらも何か芽生えるものがある訳で、はっと思いついたことなどを、メモしたり、なんだり、していました。映像インスタレーションのアイデアが、ぽつぽつと。
以前登場していたアニメーションについては、どこへやら、消えてしまった模様。長いストーリーをまとめるほど、今の僕の脳は、本来の能力かもしれないが、良く動いていない。
しかし、インスタレーションってば、プログラミングとか装置が必要じゃないですか。そこを考えるのもまた、難しいのだろう。だが、物語の全貌を、隅々まで把握し創造するよりかは、幾分か、局所的な概念で、決められた形を通していけば良いような気がする。ので、楽かも?
ものによるわけですが。
学生は技術系とスピリチュアル系と、あると思うんです。
両方あるのが望ましいのだけれど、なんとなく、どちらかに偏りがちだ。
ぼかぁ、スピリチュアル系なのだろうか。なのだろう。いやもうどっぷりか。
するってえと、大人しく映像作品作ってた方がいいんだろうけど、うーん。
がんばって技術を蓄えなければなるまい。
当たり前のことばかりだ。
とかなんとかあれこれ言った後で、つづきで、しかし前半では確かにあれこれ刺激を受けて、意欲も増してきたような気がしていたのだが、後半になるにつれて、だんだんと、憂鬱さを感じていってしまい、現在、もうなんかとりあえず現行は無理な感じ。
何を感じてそうなっていったのか、周囲のいらだちや不安や憤りなのかな。
何だか疲れてしまいました。
うーん。
内包する思いなどは、蓄積され育っていっているような気がするけれど、現実としてキッチリチャッカリカッチリしたような作品なんて、想像もつかない。どうしてもふわふわと、落ち着かないようなことになりそうな、感じ。
それでいいのかもしれないが、よくないのかもしれない。
ちょっとまた、低迷するのだろうか。
とりあえず、自分の立場が完全に振れたので、そこで迷うことは、もうなくなったみたいです。
もう一度、自信と意欲に満ち溢れるように、形作る作業に戻らないと。
それじゃ、ガンガンやってください。
蜜柑男

思い出も荷物も全部食い尽くして、ぼくは先へ進むのだ。
誰かのそれがそうであるように、僕の人生もまた、長いのだろう。
今までのことを大事に大事にすることに、大した意味はない。
大切なものが多すぎて、進めないと言うのなら、どうぞ手放しましょう。
幼い頃、「死」というものを強く意識して、生きることがおざなりになってしまったことがある。
未来のことを考えて、今を生きることができなくなってしまったこともある。
これは、まだ考えてはいけないのだと思い、ある日、それらを考えることをタブーとした。
しかし今また、それは僕の前に現れて、生きる気力を奪っている。
あの時は、考えないという道に逃げたつもりだったが、今はわかる。これは、考えてはいけないことなのだ。
未来とは、過去から今への過程の延長である。
ありのままの今を生きていくためには、過去も、未来も、不必要なのだ。
過去があって、今があって、それが未来に続いていくことは、当然、わかっている。
しかし、過去を思い出し、未来に想いをはせていては、いつ、現在を把握するのだろうか。
過去も未来も、ずっと、「今」の連続である。
しかるに僕は、過去も未来もなく、今を生きなければいけない。
先は見えない。
正しいあり方は幻想だ。
そういうことで、彼は記憶を喰らうのだろう。
(みかんに顔を描いたのは僕ですが、いたずらしたのは誰ですか)
we are soldiers stand or die
は。
ひさしぶり、まじめに。というか憂鬱に。
最近、というか、今年一年だけれど、思うのは、知人には失礼な話だが、中々こう、腹を割って話せる相手がいない、なぁ、と言うこと。
いやぁ、近況報告や、内情、弱音など語り合って、それなりに、は、通っているような気もするのだけれど、否、真意が繋がっていないというか、やはり互いの本当のあり方を理解しあうというところから既に、難しいのだ。しかるに、その後続く思考や理想も、すれ違う。
同時に、引け目も感じる。
同年代の友人は、今まさに若者として人生の最も大切、というか、活力に溢れていなければいけない時期だと思う。しかし常にフル回転のモーターは非情に不安定だ。ちょっとしたつまずきで、簡単に転んでしまいかねない。すると、こちらのあまりに貧弱な弱音や答えのない疑問が、大変に邪魔になってしまう。それでもこちらも、やはり、参っているので、助けを乞う、しかし、やはり、あまり全てもたれるのは、重い。不安定な彼らにそれは苦と言うものだ。
すると、やはり、あたりさわりのないところで、なるほど、そうだね、がんばるよ、と言って、大丈夫なふりをするしかない。
でなければ、 。
だから、なんでもないふりをすればいい。友人の仕事の愚痴も、学業の悩みも、作品の思いも、僕は全部聞いて、でもきっと相手も、全部は、言っていないのだろう。僕は全部聞きたいと思うのだけれど、聞いて、言って、したい、が、それは、個人としてあるためには反則なんだろう。だからみんな、それは、言わない。僕は、言いたい。言って、答えが欲しい。本当の答えが欲しい。強がりや、体面として正しいあり方ではなく、真理を教えて欲しい。
学生の頃、成績はまあまあいい方で、体育以外は。中でも、数学が好きだった。否、好き、ではなく、得意だった。か。
けれど、問題があって、それを解いて、答えが出す、という作業は苦手、というか、苦痛で、どうしても、先に解答を見てしまった。答えを先に知って、どうしてそのようになるのか、そう考えて、理解する、それが僕の勉強方法だった。
同じように、あてどなく答えを探すのは、疲れる。苦痛だ。
答えを知って、そのようになる理由を考えながら、そうなっていきたい。
作品についての展望が、少し、見えた気がしたのだが、僕が、声に出してはいけない言葉を言ったので、世界が変わってしまった。同時に、ヴィジョンも崩れてしまったように思う。
意識をもち変えて世界を見たら、また少し輝いて見えたのだけれど、それを人に言ったらまた、だめになった。これは僕の中で秘密に飼っておくべき考え方だったのだ。知られたらそう、当然、ひややかになる。他人の意識の持ち方が、合わないので、自分の中で、意識を変えればよかったのだが、それを人に知られれば、人もその言葉の意味で、別の意識を持ち直す、しかしそれは、僕の意識と対になるものではない。知らせなければいけなかったのだが、知らせれば、誤解される。やりにくい。
コバヤシ君には、あまりそれがわからないようで、コバヤシ君とは最近仲が良くなったのだが、最近、というと、僕の意識が変わってからである、すると、いわゆる前提がわからない、最初から僕が、そうやって制作している、いけるものだと感じるだろう。しかしそれは虚構であり、現実のものではない。現実の事象とつなげた途端に、ほつれて消えてしまう。コバヤシ君は知らないので、つなげようとしてくれる。ありがたいことではあるが、前提のある僕を考えると、すこし、迷惑な作業でもある。恩知らずな話だが、事実。善行が善である確証はない。
関係ない話だが、彼には皮肉が通じないようで、僕はつまり、最近になって実感したのだけれど、どうにも、皮肉しか言わないようだ。すると、意図が正しく通じ合うことは、なかなか難しい。自分の気持ちを正攻法で伝える努力をしないといけない。
人の心は裏目裏目に幾重にも折り重なってるように思うので、多少婉曲して伝えた方が、折り目の隙間に入っていくような気がするのだが、少なくとも、彼にはそうではないようだ。
だから第三者の意見を聞いた時など、相違が出てくる。
僕は言葉の内包する別の意味を探るが、コバヤシ君は素直に、うけとる。
どちらが正しいかと言えば、恐らくコバヤシ君なのだろう。
建前で成り立ってる世界を建前の通りに生きているのだ、何事もが円滑に進む。
僕のように本音を探って、せっかく相手の立てた建前を台無しにしてしまえば、当然頓挫する。
しかし、建前だけでよしとする頭の構造ではないので、これは仕方ない。
人の言葉には掛け値というものが存在する。
どんな言葉にも、真意以上の意味を内包しているということだ。
それに誰しも、自分の気持ちを全く正しく適切な言葉で完全に表現するということは難しいと思う。口をついて出る言葉も、実際はそれほどまでには思っていないことが多い。
するとやはり、単純に言葉の意味を紐解くだけでは不十分である。
あてどなく、答えを探る他ない。
もっと自由に生きていいのだろうか。
相手のことを考えないで接していいのだろうか。
そんなに人によく思われたいのか、とよく言われる。
そういう気はない、と答えてきたが。うん、そういう気はない。
よく思われたいのではなく、否定されたくないのだ。
否定されれば、何もできなくなってしまう。
何故か。
どうも「自己評価の低さ」が原因らしい。
どうしても『自分<他人』なので、他人から否定されれば自分の意思には関係なく、それはダメになってしまう。
何だかんだで、社会的にいわゆる少数派、弱者側の因子を多く含んでいるので、それを良しとしない人がいれば、自身の存在そのものも否定せざるをえない。
じゃあもっと自信を持てよ、ということになるが、そうともいかない。何故いかないか、わからない人がいたら、コバヤシ君的に言うと「ダサい」ね。
そうしなさいと言われて、はいそうしますとなれるなら、最初から問題にならない。
おもちゃを片付けない子供とは訳が違う。
どちらが正しいかわかっているが、どうしたらいいのかさっぱりわからない。
わからないので、幻想に逃げたのだ。
ずっと、死んだ後のような感覚が続いている。
死んだ後、今までの人生を現在も含めて傍観しているような、イメージ。
未来から断絶された世界と言うべきか。先がない。
まさに今、死んでもいい。死ぬべきだ。
そう思いながら、生きている。
とても健全な状態ではないが、安らかな顔をしているので、気付かれることはない。
ひさしぶり、まじめに。というか憂鬱に。
最近、というか、今年一年だけれど、思うのは、知人には失礼な話だが、中々こう、腹を割って話せる相手がいない、なぁ、と言うこと。
いやぁ、近況報告や、内情、弱音など語り合って、それなりに、は、通っているような気もするのだけれど、否、真意が繋がっていないというか、やはり互いの本当のあり方を理解しあうというところから既に、難しいのだ。しかるに、その後続く思考や理想も、すれ違う。
同時に、引け目も感じる。
同年代の友人は、今まさに若者として人生の最も大切、というか、活力に溢れていなければいけない時期だと思う。しかし常にフル回転のモーターは非情に不安定だ。ちょっとしたつまずきで、簡単に転んでしまいかねない。すると、こちらのあまりに貧弱な弱音や答えのない疑問が、大変に邪魔になってしまう。それでもこちらも、やはり、参っているので、助けを乞う、しかし、やはり、あまり全てもたれるのは、重い。不安定な彼らにそれは苦と言うものだ。
すると、やはり、あたりさわりのないところで、なるほど、そうだね、がんばるよ、と言って、大丈夫なふりをするしかない。
でなければ、 。
だから、なんでもないふりをすればいい。友人の仕事の愚痴も、学業の悩みも、作品の思いも、僕は全部聞いて、でもきっと相手も、全部は、言っていないのだろう。僕は全部聞きたいと思うのだけれど、聞いて、言って、したい、が、それは、個人としてあるためには反則なんだろう。だからみんな、それは、言わない。僕は、言いたい。言って、答えが欲しい。本当の答えが欲しい。強がりや、体面として正しいあり方ではなく、真理を教えて欲しい。
学生の頃、成績はまあまあいい方で、体育以外は。中でも、数学が好きだった。否、好き、ではなく、得意だった。か。
けれど、問題があって、それを解いて、答えが出す、という作業は苦手、というか、苦痛で、どうしても、先に解答を見てしまった。答えを先に知って、どうしてそのようになるのか、そう考えて、理解する、それが僕の勉強方法だった。
同じように、あてどなく答えを探すのは、疲れる。苦痛だ。
答えを知って、そのようになる理由を考えながら、そうなっていきたい。
作品についての展望が、少し、見えた気がしたのだが、僕が、声に出してはいけない言葉を言ったので、世界が変わってしまった。同時に、ヴィジョンも崩れてしまったように思う。
意識をもち変えて世界を見たら、また少し輝いて見えたのだけれど、それを人に言ったらまた、だめになった。これは僕の中で秘密に飼っておくべき考え方だったのだ。知られたらそう、当然、ひややかになる。他人の意識の持ち方が、合わないので、自分の中で、意識を変えればよかったのだが、それを人に知られれば、人もその言葉の意味で、別の意識を持ち直す、しかしそれは、僕の意識と対になるものではない。知らせなければいけなかったのだが、知らせれば、誤解される。やりにくい。
コバヤシ君には、あまりそれがわからないようで、コバヤシ君とは最近仲が良くなったのだが、最近、というと、僕の意識が変わってからである、すると、いわゆる前提がわからない、最初から僕が、そうやって制作している、いけるものだと感じるだろう。しかしそれは虚構であり、現実のものではない。現実の事象とつなげた途端に、ほつれて消えてしまう。コバヤシ君は知らないので、つなげようとしてくれる。ありがたいことではあるが、前提のある僕を考えると、すこし、迷惑な作業でもある。恩知らずな話だが、事実。善行が善である確証はない。
関係ない話だが、彼には皮肉が通じないようで、僕はつまり、最近になって実感したのだけれど、どうにも、皮肉しか言わないようだ。すると、意図が正しく通じ合うことは、なかなか難しい。自分の気持ちを正攻法で伝える努力をしないといけない。
人の心は裏目裏目に幾重にも折り重なってるように思うので、多少婉曲して伝えた方が、折り目の隙間に入っていくような気がするのだが、少なくとも、彼にはそうではないようだ。
だから第三者の意見を聞いた時など、相違が出てくる。
僕は言葉の内包する別の意味を探るが、コバヤシ君は素直に、うけとる。
どちらが正しいかと言えば、恐らくコバヤシ君なのだろう。
建前で成り立ってる世界を建前の通りに生きているのだ、何事もが円滑に進む。
僕のように本音を探って、せっかく相手の立てた建前を台無しにしてしまえば、当然頓挫する。
しかし、建前だけでよしとする頭の構造ではないので、これは仕方ない。
人の言葉には掛け値というものが存在する。
どんな言葉にも、真意以上の意味を内包しているということだ。
それに誰しも、自分の気持ちを全く正しく適切な言葉で完全に表現するということは難しいと思う。口をついて出る言葉も、実際はそれほどまでには思っていないことが多い。
するとやはり、単純に言葉の意味を紐解くだけでは不十分である。
あてどなく、答えを探る他ない。
もっと自由に生きていいのだろうか。
相手のことを考えないで接していいのだろうか。
そんなに人によく思われたいのか、とよく言われる。
そういう気はない、と答えてきたが。うん、そういう気はない。
よく思われたいのではなく、否定されたくないのだ。
否定されれば、何もできなくなってしまう。
何故か。
どうも「自己評価の低さ」が原因らしい。
どうしても『自分<他人』なので、他人から否定されれば自分の意思には関係なく、それはダメになってしまう。
何だかんだで、社会的にいわゆる少数派、弱者側の因子を多く含んでいるので、それを良しとしない人がいれば、自身の存在そのものも否定せざるをえない。
じゃあもっと自信を持てよ、ということになるが、そうともいかない。何故いかないか、わからない人がいたら、コバヤシ君的に言うと「ダサい」ね。
そうしなさいと言われて、はいそうしますとなれるなら、最初から問題にならない。
おもちゃを片付けない子供とは訳が違う。
どちらが正しいかわかっているが、どうしたらいいのかさっぱりわからない。
わからないので、幻想に逃げたのだ。
ずっと、死んだ後のような感覚が続いている。
死んだ後、今までの人生を現在も含めて傍観しているような、イメージ。
未来から断絶された世界と言うべきか。先がない。
まさに今、死んでもいい。死ぬべきだ。
そう思いながら、生きている。
とても健全な状態ではないが、安らかな顔をしているので、気付かれることはない。